さようならの思い出作り

今回は太郎坊宮

正式名称は阿賀神社になります

しかし本来元々の名称が、太郎坊宮

古くは天台宗の成願寺とともに神仏習合でお寺と神社が一緒くたなかんじでしたが

明治の神仏分離の改革で名称が形式的に変更

阿賀神社という名称になりましたが、元の通称の方が知られているようです

 

 

 

www.tarobo.sakura.ne.jp

 

とはいえ、結構登るのが大変だったためか、充電切れでもしたのか、肝心の中の写真をあまり撮影してなくて

とにかくはまず階段が多いのが有名です

800段近くあるそうですが、体感として立木観音のほうがしんどかったかな

 

www.tachikikannon.or.jp

まずは修行の入口から

 

近江鉄道太郎坊宮前からも全貌が見えます

山全体がご神体なんだそうです

 

 

写真を撮るのを忘れていましたが、一番の見どころである夫婦岩

大きな石に挟まれた狭い通り道がありまして

良い行いをしていたなら通れるけど

悪いヤツが通ろうとしたならば即座に石に挟まれてしまうという

真実の口のような判定が下される道のりがありました

私は無事通れたようですので、きっと悪いことはしていなかったのかも(笑)

 

なんや天狗がドウノコウノということで駅にも天狗の額縁がありましたが

どうやら京都の愛宕山にいる天狗は弟の次郎坊なんだそうで

 

いわゆる勝ち運の神様のような立ち位置のようです

そのせいなのか、ゼロ戦のプロペラが奉納されておりました

なぜなのか、ちょっと調べてみたけどよくわかりません

 

天狗というと自慢満々なこととか比喩で示しますよね

ロレックスだのGショックだの、車だの

鞄だ装飾品だの、いわゆるドヤ顔で自慢する物がありますが~

私自身は物そのものでドヤ顔するネタはありません

いや、中身で勝負というわけではありませんが

 

昔、亡父が車好きであれこれと替えていたりとかのなんか複雑な思い出もありまして

なんかお値段が高いものをドヤというのが好きではないというか

自分で言うにしてもなんだか嫌な気分になるわけでして

どちらかというとお値段が高い自慢よりも

関西風にどれだけ安かったかの方が楽しい感じ

 

とはいえ、何でもかんでも安いものがいいというわけでもなくて

お値段が高いものを購入するときももちろんあります

ただ、消え物であることが多いです

 

占いもそうですけども、マッサージとか

映画鑑賞、旅、食事やお酒もその範囲

形に残るものもありますが、最近では書籍もキンドルに移行してきましたし

このほど、琵琶湖ホールのサポート会員にもなりました

もしもお金があったらピアノも習い直したいなとも

 

幼い頃から、物は無くなるという意識がありました

なので、失うことがない何かを欲しておりました

ある意味貪欲ではないかと思います

 

しかしこの年になってきて

自分の記憶が消滅するという可能性について考えるようになりました

自分の脳味噌から記憶が消えていくという可能性

知識としては認知症などあるとは幼い頃から判っていたものの

感覚としては、

自分が自分であることの絶対性を揺るぎないものとして考えておりました

 

しかし身近で認知症の方をみると

その揺るぎない自己の意思すら風前の灯で

否応なしに覆されていく

そこから死後の世界を時折具体的に考えるようになりました

 

 

死後の世界ってそれこそ死んでみないとわからないでしょうが

私が考えるに

夢のような感じではないかと

永遠に覚めない夢

 

やがてくるかもしれない宇宙への旅

近未来でぎりぎり見聞きできそうな範囲では火星がありますが

今のところの計算では最短で260日ほどくらいはかかるそうです

その間の飲食や生活行動に関する全体の消費を考えた場合

なるべくその消費を抑えるためには

いっそのこと寝たらどうだろうという案があります

仮死状態で寝ている状態で旅をするという

わりと現実的な想定があるそうですけども

その場合のリスクの一つに『悪夢』というのがあるそうです

覚めない夢で悪夢は最悪でしょう

その最悪の覚めない夢が

もしも死出への旅ならば、それは本当の地獄だと思います

 

 

そういうことで推理するならば

本当の悪人が地獄に堕ちるというのは意外と無いのかもしれません

本当の悪人って自分が悪人だとかあまり思っていないケースがありますし

刑法などで悪人という判決が出るから、

おそらくは自分は悪人なんだろうなと察しはついているでしょうが

心の中ではちっとも悪いとは思っちゃいないわけです

 

もしかしたら心の中のどこかで呵責を感じているとか

大罪に纏わる因果応報的な危険などを想定しているならば

きっと悪夢は見るでしょうが

自ら本当にその罪を認識してないと牙は向かないのです

ですので、地獄というのは、

その大罪に対しての認識を改めて、償ってからが刃が己に向かう

これが地獄の始まりなのかもしれません

そして生きている限りはその罪を認識し、地獄に滞在しているわけです

死んでもなお罪を思うのならば、やはりそこは地獄なのかもしれません

 

一方、現世が辛くて自ら命を絶つという方もおられます

その選択そのものは個々の判断だということで深く可否は問えません

しかし、現世が辛くてという意図があったならば

もしかしたらその先は地獄かもしれません

醒めない悪夢の幕があがるのかもしれない

そういうことで成仏出来る出来ないの違いがあるのかもなと思います

自ら作り出す悪夢に苛まれるのかもしれない

 

 

先日、職場でのほぼ同年代の同期の方が亡くなられました

元から心臓が悪くて、生死五分五分の手術を迷っていると聞きました

もしかしたらこの先技術や発見が進んでもっと良い手段があるかもしれない

でも手術の体力を考えると還暦前でリスクとしてはギリギリのライン

かといって、この先さらに病が悪化して、

介護を負わせるような家族に負担はかけたくない

 

その話を聞いた私は

人はいつかは絶対死ぬ

みんなあの世へは必ず行くことは間違いがない

大体一般的に死ぬケースは、

たいてい想定外の瞬間に突然あの世に行くのだから

突然の具合によっては「今じゃない!待ってくれ!」

ということだってあるだろうし

メリットデメリットで考えれば

手術であかんかったとしても

その場合は予め色々覚悟とか準備も整っているだろうし

同じ手術でも祈願でもなんでも、体を作ったり

納得できるように色々準備だってできるし

それこそいつでもいいと言われているなら

そのタイミングだって自由に決められるのは結構大きいよね

もちろん手術しないという選択もあるけど、

後悔しない選択は~

やっぱりどう生きたいかじゃないかな~

 

そんな会話が彼女との最期でした

 

まさかそんなすぐに決意して勝負をつけるとは!

私はもしかしたらすごく余計なことを言ったのかもしれない

 

だけど

ナイスファイト

きっと胸を張って旅立たれたことでしょう

優しく凛々しい方でした

 

私は罪を犯したと思うのです

私はきっと余計なことを言った

正直父の死も悼んでなどいない

かつての母の死ですら病院がなくなるという部分でホッとしていた

その罪を手にしながらきっとあの世へ行く旅に出ることでしょう

 

太郎坊宮の石の隙間で

真実の口のようになんらかの審判が下ってぺっちゃんこになったとしても

きっと経験した素敵な思い出は

最期の一瞬でひとときの幸せを揺り起こしてくれるのではないかと

 

死んですべてが無くなったとしても

それでも

きっと楽しかった思い出など

どこかの記憶の切れ端に刻みこまれるのではないかと

そこに期待して

色んな景色見たり、音楽を聴いたり、

現在セッセと生前の思い出作りに勤しんでいるわけです